北村透谷『漫罵』

表記のみを現代的に改めた(仮名遣いや送り仮名など)。

 

一夕友と共に歩して銀街を過ぎ、木挽町に入らんとす。第二橋あたりに至れば都城の繁熱ようやく薄らぎ、家々の燭影水に落ちて、はじめて詩興生ず。われ橋上に立って友を顧み、共に岸上の建家を品す。あるいは白亜を塗するあり、あるいは赤瓦を積むもあり、洋風あり、国風あり、あるいは半洋、あるいは局部において洋、あるいは全く洋風にしてしかして局部のみ国風を存するあり。さらに路上の人を見るに、あるいは和服、あるいは洋服、フロックあり、背広あり、紋付きあり、前垂れあり。さらにその持つものを見るに、ステッキあり、洋傘あり、風呂敷あり、カバンあり。ここにおいて、われ憮然として嘆ず、今の時代に沈厳高調なる詩歌なきはこれをもってにあらずや。

 

今の時代は物質的の革命によりて、その精神を奪われつつあるなり。その革命は内部において相容れざる分子の撞突より来たりしにあらず。外部の刺激に動かされて来たりしものなり。革命にあらず、移動なり。人心おのずから自重するところあるあたわず、知らず知らずこの移動の激浪に投じて、自ら殺さざる者まれなり。その本来の道義は薄弱にして、もって彼らを縛するに足らず、その新来の道義は根蒂を生ずるに至らず、もって彼らを制するに堪えず。その事業その社交、その会話その言語、ことごとく移動の時代を証せざるものなし。かくのごとくにして国民の精神はよくその発露者なる詩人を通じて、文字の上にあらわれ出でんや。

 

国としてのプライド、いずくにかある。人種としての尊大、いずくにかある。民としての栄誉、いずくにかある。たまたま大声疾呼して、国を誇り民をたのむ者あれど、彼らは耳を閉じてこれを聞かざるなり。彼らの中に一国としての共通の感情あらず。彼らの中に一民としての共有の花園あらず。彼らの中に一人種としての共同の意志あらず。安逸は彼らの宝なり、遊惰は彼らの糧なり。思想のごとき、彼らは今日において渇望する所にあらざるなり。

 

今の時代に創造的思想の欠乏せるは、思想家の罪にあらず、時代の罪なり。物質的革命に急なるの時、いずくんぞ高尚なる思弁に耳を傾くるの暇あらんや。いずくんぞ幽美なる想像に耽るの暇あらんや。彼らは哲学をもって懶眠の具となせり、彼らは詩歌をもって消閑の器となせり。彼らが目は舞台の華美にあらざれば奪うことあたわず。彼らが耳は卑猥なる音楽にあらざれば娯楽せしむることあたわず。彼等が脳髄は奇異を旨とする探偵小説にあらざればもって慰謝を与うることなし。しからざれば大言壮語して、もって彼らの胆を破らざるべからず。しからざれば平凡なる真理と普通なる道義を繰り返して、彼らの心を飽かしめざるべからず。彼らは詩歌なきの民なり。文字を求むれども、詩歌を求めざるなり。作詩家を求むれども、詩人を求めざるなり。

 

なんじ詩人となれる者よ、なんじ詩人とならんとする者よ、この国民が強いてなんじを探偵の作家とせんとするを怒るなかれ、この国民がなんじによりて艶語を聞き、情話を聞んとするを怪しむなかれ、この国民がなんじを雑誌店上の雑貨となさんとするを恨むなかれ、ああ詩人よ、詩人たらんとする者よ、なんじらは不幸にして今の時代に生れたり、なんじの雄大なる舌は、陋小なる箱庭の中にありて鳴らさざるべからず。なんじの運命はこの箱庭の中にありてよく講じ、よく歌い、よく罵り、よく笑うに過ぎざるのみ。なんじはすべからく十七文字をもって甘んずべし、よく軽口を言い、よく頓知を出すをもって満足すべし。なじはすべからく三十一文字をもって甘んずべし、雪月花を繰り返すをもって満足すべし、煮え切らぬ恋歌を歌うをもって満足すべし。なんじがドラマを歌うは贅沢なり、なんじが詩論をなすは愚痴なり、なんじはある記者が言えるごとく偽りの詩人なり、怪しき詩論家なり、なんじを罵る者かく言えり、なんじもまた自ら罵りてかく言うべし。

 

なんじを囲める現実は、なんじを駆りて幽遠に迷わしむ。しかれども汝は幽遠のことを語るべからず、汝の幽遠を語るは、むしろ湯屋の番頭が裸体を論ずるにしかざればなり。汝の耳には兵隊の足音をもって最上の音楽として満足すべし、なんじの目には芳年流の美人絵をもって最上の美術と認むべし、なんじの口にはアンコロをもって最上の珍味とすべし、ああ、なんじ、詩論をなす者よ、なんじ、詩歌に労する者よ、帰れ、帰りてなんじが店頭に出でよ。