大槻文彦『ことばのうみのおくがき』

仮名づかいや漢字表記、句読点などに手を加えた。原文縦書き。(青空文庫大槻文彦 ことばのうみのおくがき)

大槻文彦『ことばのうみのおくがき』

17年を振り返る

先人、かつて文彦らに「王父が戒語なり」とて語られけるは「およそ事業はみだりに興すことあるべからず。思い定めて興すことあらば『遂げずばやまじ』の精神なかるべからず」と語られぬ。おのれ不肖にはあれど、平生この戒語を服膺す。本書、明治8年起稿してより今年に至りて初めて刊行の業を終えぬ。思えば17年の星霜なり。ここに過去経歴の跡どもを大方に書きつけて、後の思い出にせんとす。見ん人、そのくだくだしきを笑いたまうな。

 

 編集を命じられる

明治7年、おのれ仙台にありき。こは、その前年、文部省の仰せを承りて、その地に宮城師範学校というを創立し、校長を命ぜられて在勤せし折りなりけり。さるに、この年の末に本省より特に帰京を命ぜられて、8年2月2日、本省報告課(明治13年に編集局と改められぬ)に転勤し、ここに初めて日本辞書編集の命あり。これぞ本書編集着手の始めなりける。時の課長は西村茂樹君なりき。

 

 かつて頓挫した『語彙』

その初めは、榊原芳野君とともに編集の仰せを被りたりしに、幾ほどなくて榊原君は他に移りて、おのれ一人の業とはなりぬ。後に聞けば、初め辞書編集の議おこれる時、和漢洋を具備せる学者数人召し集められんの計画にて、おのれは那珂通高君の薦めなりきとか聞きつる。またこれより先に、編集寮にて『語彙』を編集せしめられしに、碩学7, 8人して2, 3年の間に、僅かに「あ, い, う, え」の部を成せりき。横山由清君もその一人なりしが、再挙ありと聞かれて、意見を述べられけるは「『語彙』の編集、議論にのみ日を過ぐして成功なかりき。多人数ならんよりは、大槻一人に任せられたらんには、かえって全功を見ることあらん」と言われたりとなり。このこと横山君の直話なりとて、後に清水卯三郎君、おのれに語られぬ。この業の、おのれ一人の事となれるは、かかる由にてやありけん。

 

着手当初の苦労

初め、編集の体例は簡約なるを旨として、収むべき言語の区域、または解釈の詳略などは、およそ米国のウェブスター氏の英語辞書中の『オクタボ』という節略体のものに倣うべしとなり。おのれ命を受けつる始めは、壮年鋭気にして思えらく「オクタボの注釈を翻訳して、語ごとに埋め行かんに、この業、難からず」と思えり。これより、従来の辞書体の書、数十部を集めて、字母の順序をもって、まず古今雅俗の普通語と思う限りを採集・分類して、解釈のありつるは合わせて取りて、そのほか東西洋おなじ物事の解は、英辞書の注を訳して差し入れたり。かくすること数年にして通編を終えて、さて初めに帰りて、各語を追いて見もて行けば、注の成れるは早く成りて、成らぬは成らず、語のみ印つけて、その下は空白となりて、老人の歯の抜けたらんようなる所、一葉ごとに5~7語あり。古語・古事物の意の解きがたきもの。説のまちまちなるもの。8品詞の標別の下しがたきもの。語源の知られぬもの。動詞の語尾の変化の定めかぬるもの。仮名づかいの拠る所なくして順序を立てがたきもの。動植物の英辞書の注解に拠りたりしものの、仔細に考え分くれば、物は同じけれども、形状色沢の、東西の風土によりて異なるもの。そのほか雑草、雑魚、小禽、魚介、さては俗間通用の病名などに至りては、支那にもなく、西洋にもなく、邦書にも徴すべきなきが多し。かく一葉ごとに5~7語ずつ、注の空白となれるもの、これぞこの編集業の盤根錯節とはなりぬる。

 

言葉の海のただなかで

筆とりて机に臨めども、いたずらに望洋の嘆を起こすのみ。言葉の海のただなかに楫緒絶えて、いずこをはかと定めかね、ただその遠く広く深きに呆れて、おのが学びの浅きを恥じ責むるのみなりき。さるにても「興せる業はやむべきにあらず。王父の遺戒はここなり」と、さらに気力を奮い起こして、及ぶべき限り引用の書を集め、また有識に問い、書につき、人につき、ここに求め、かしこに質して、大方にも解釈し、かたわら、また別に一業を興して、数十部の語学書を集め、和洋を参照・折衷して、新たに自ら文典を編み成して、ついにその規定によりて語法を定めぬ。この間に年月を徒費せしこと実に予想の外にて、およそ本書編成の年月はこの盤根錯節のために費やせること過半なりき(この間に他書の編纂校訂など命ぜられ、また音楽取り調べ係り兼勤となりしことも数年なりき)。

 

語源の探究

解釈を探れる事につきて、その一つ二つを言わん。某語あり。語源つまびらかならず、外国語ならんの疑いあり。ある人偶然に「そは何人か、スペイン語ならんと言えることあり」と言う。さらばとて西英対訳辞書を求むれど得ず。「何某ならばスペイン語を知らん、君その人を知らば添書をたまえ」とて、やがて得てその人を訪う。不在なり。再び訪いて会えり。

「おのれは深くは知らず」

「さらば君が知れる人に、スペイン語に通ぜる人やあらん」

「某学校に、その国の辞書を蔵せりと覚ゆ」

「さらば添書をたまえ」

とて、さらにその学校に行きて、ついにその語源を知ることを得たりき。

 

いつでもどこでも語釈の詮索

捕吏の、盗人を縦跡する言葉に「足がつく」「足をつける」ということあり。語釈の詮索も相似たりと、一人笑える事ありき。そのほか酒宴・談笑・歌吹の間にも、ゆくりなく人の言葉のふと耳に留まりて、はたと膝打ち「さなりさなり」と悟りて、手帳に書い付けなどして人の怪しみを受け、また汽車の中にて田舎人を捕らえ、その地方の方言を問いつめて、果てはうるさく思われつることなど、およそ、かかるおこなる事もしばしばありき。すべて、解釈の成れる後より見れば何の事もなきように見ゆるも、多少の苦心を込めつる多かり。

 

よく引き受けたものだ

おのれは漢学者の子にて、わずかに家学を受け、また王父が蘭学の遺志を継ぎて、いささか英学を攻めつるのみ。国学とては、さらに師事せし所なく、受けたる所なく、ただおのが好きとて、若干の国書を見渡しつるまでなり。さるを思えばその初め、かかる重き編集の命を、おおけなくも、否まず承りつるものかな。「辞書編集の業、碩学すら悩めるはこれなりけり」と思い得たるに至りては、初めの鋭気とみに挫けて、心そぞろに畏れを抱くに至りぬ。また局長には「おのれが業の捗らぬをいかにか思わるらん。怠りおるとや思いおらるらん」など思うに、そも局長西村君はその初め、この業をおのれに命ぜられてより久しき歳月を渡れるに、更にいかにと問われし事もなく、促されし事もなし。その意中推し測りかねて、常に恥ずかしく思えりき。

 

パトロン西村茂樹

さるに、明治16年の事なりき。阿波の人井上勤君、編集局に入り来られぬ。同君まず局長に会われし時に、局中には学士も済々たらん。「なにがし」「くれがし」と話し合われたる時、局長の言わるるに「ここにひとり奇人こそあれ。大槻のなにがしという。この人、雑駁なる学問なるが、本邦の語学はよく調べてあるようなり。かねて一大事業を任せてより、今は早や10年に近きに、なお倦まずして打ちかかりてあり。強情なる士にこそ」と話されぬ。と、井上君入局して後に、ゆくりなくおのれに語られぬ。おのれこの話を聞きて「局長の意中も、さては」と感激し、またその「強情おとこ」の月旦は、おのれが立てつる筋を洞見せられたりけり。「人の己を知らざるを憂えず」の格言もこれなりなど思いて、嬉しいというも余りありき。げにや、そのかみの官衙の有り様は、倏忽に変遷することありて、局も人も事業も、10年の久しきに継続せしは稀有なる事にて、おのれがこの業は、都下熱閙の市街の間にありて、10年の間、火災に焼け残りたらんがごとき思いありき。そもこの業の成れるは、おのれが強情など言わんはおおけなし。ひとえに局長が心の寄せ一つに成りつるなりけり。西村君は、実にこの辞書成功のパトロンとや言わまし。

 

イギリス行きの話

そのかみは、官途も今のごとくにはあらず。奉承栄達の道も、今よりは容易かりきと覚ゆ。同僚は時めきて移れるも多し。おのれに親しく栄転を勧めたりし人さえも、一人二人にはあらざりき。されど、かかる事にて心の動く時は、つねに王父の遺戒を瞑目一思しぬ。明治11年6月、おのが父にておわする人、78歳にして身まかられぬ。老いたまいての上の天然の事とはいえ、今さらの事にて、悲しきこと限りなし。今よりは難義の教えを受けんことも叶わずと思えば心細し。辞書の成稿を見せ参らせんの心ありしかども、その甲斐もなし。こののち幾ほどなき事なりき、同郷なる富田鉄之助君ロンドンに在勤せられて「来遊せよかし。おのれ、いかにもして扶持せん」など厚意もて言い起こせられたり。君の我を愛せらるること今に始めぬ事ながらと感喜踊躍して、さて思えらく「かかる機会は多く得べからず。父の養いは既に終えつ。おのれは次子なり。家兄は存せり。家の祭り、母の養い、託すべき人あり。また妻もなく子もなし。幾年にてもあれ、海外に遊びてあられん程はあらん。いずこにも青山あらん。海外にて死にもせん。さらばこの土に、何をか一事業を留めて行かん。その業はすなわちこの辞書なるめり。いよいよ半途にしてやむべきにあらず」。かく思いなりて、さてその頃おのれは本郷に住めり。父を養わんために営みつる屋敷なりけり。かかる事の用にとならば亡き霊も否みたまわじ、など思い定めて、やがて、そを売りて二千余金を得、これに蓄余を加えなどして腰纒を調えて、さて、ひたぶるに辞書の成業を急ぎぬ。されども例の盤根錯節は容易く解けやらず、今は困じに困じて「推辞せんか躱避せんか」「捨てん捨てじ」の妄念、幾たびか胸中に戦いぬ。されどかかる折りには例の遺戒を思い出でて、しばしば思い静めぬ。かくて心のみ逸りて、心ならずも日を過ぐせるうちに、当時、楮幣・洋銀の差、大いに起こりて、備えつる腰纒は思い量りし半ばばかりとなり、幾ほどなく富田君も帰朝せられて、いよいよ呆然たり。さてこそ、この願望は一睡妄想の夢とは醒めたれ。

 

費やした犠牲は報われる

およそ、この辞書編集10年間は、おのれが旺壮の年期なりしを、全くこの事業の犠牲とはしたりき。よく世と推し移りたらましかば、かばかり沈滞もせざらまし。今はやみなん。さはあれど、またつらつら人の上を顧み思うに、時めかしつるも、変遷しぬるも、さてその10数年間、何の業をか成せると見れば「黄粱一夢」「鴻爪」「刻船」のさまなるも多かり。我には、数ならねどこの10年間の事業は痕を留めたり。相乗除せば、さまで繰り言すべくもあらじ。まして箕裘を継ぎつる上はこの文学の道にかくてあらんは、おのれが分なり。さるにても世の操觚の人は、史文に綺語に、とかく花も実もありて、声聞・利益を博せん方にのみ就くに、おのれはかかる至難にして、人後につき名も利も得らるまじき埋もれ木わざに半生を埋みつるは、迂闊なる境涯なりけり。されどこの業、文学の上に、誰か必要ならずとせん。必要なる業なれど人は捨てて就かず、おのれは人の捨てつる業に殉せり。いささか本分に報ゆる所ありともせんかし。

 

原稿の再訂終わる

本編引用の書に至りては、謹みて中外古今碩学が賜物を拝す。実に皆その辛勤の余沢なり。家に蔵せる父祖が遺著・遺書の恵み、また少なからず。編集中の質疑に至りては、黒川真頼、横山由清、小中村清矩、榊原芳野佐藤誠実など諸君の教え、謝し思う所なり。しかして稿本成りて、名を言海とつけられしは、佐藤誠実君の考選に出でたり。稿本の浄書を始めつるは明治15年9月にて、局中にて、中田邦行・大久保初男の二氏をこの編集業につけられ、校字写字は大方この二氏の手に成れり。さて初稿成れりし後も、常に訂正に従事して、その再訂の功を終えたるは実に明治19年3月23日なりき。

 

文部省は冷たく、自費出版

さて局長西村君は前年転任せられ、おのれも19年11月に第一高等中学校教諭・古事類苑編纂委員などに移りて、本書出版の消息なども聞く所あらず。ひととせ故文部大臣・森有礼君の邸に饗宴ありし時、おのれも招かれて、宴過ぎて後に、辻新次君と鼎坐して話し合える折りにも「君が多年苦心せる辞書、出版せばや」など、大臣親しく言い出でられつる事もありしが、編集の拙き、出版に堪えずとにや、あるいは資金の出所なしとにや、その事もやみぬ。かくて稿本は文部省中にて、久しく物集高見君がもとに管せらると聞きしが、いかにかなるらん。果て果ては、いたずらに紙魚の住みかとも成りなんなど、思い出いでぬ日とてもあらざりしに、明治21年10月に至りて、時の編集局長・伊沢修二君、命を伝えられて「自費をもって刊行せんには、本書稿本、全部下賜せらるべし」となり。誠に望外の命を承りて、恩典、枯骨に肉する思いあり。すなわち私財をかき集めて資本を備え、富田鉄之助君および同郷なる木村信卿君・大野清敬君の賛成もありて、いよいよ心を強うし、踊躍して恩命を拝しぬ。かくて編集局の命にて

・必ず全部の刊行を果たすべし

・刊行の工事は同局の工場に託すべし

・編首に、本書はおのれ文部省奉職中編纂の物たることを明記すべし

・若干の献本すべし

などいう約束を受けて10月26日、稿本を下賜せられ、やがて同じ工場にて私版として刊行する事とはなりぬ。

 

訂正・校正の2年半

刊行の初め、中田大久保の二氏、閑散なりしかば、家に宿して、活字の校正せんことを託しぬ。稿本も初めは初稿のままにて、直ちに活字に付せんの心にて、本文の初めなる数ページは実にそのごとくしたりしが、数年前の旧稿、今に至りて仔細に見もて行けば、あかぬ所のみ多く出できて、重ねて稿本を訂正する事とし、校訂塗抹すれば、二氏浄書して直ちに活字に付し、活字は初めより2回の校正と定めたれば、一版面、3人して6回の校正とはなりぬ。かくてより今年の落成に至るまで、2年半の歳月は、世の交じらいをも絶ちて、昼となく夜となく、ただこの訂正校合にのみ打ちかかりて、さらに他事を顧みず。さてまた編中の体裁も注釈文も初稿とは大いに面目を改めぬ。

 

刊行の計画

本書刊行の初めに編集局工場と約して、全部明年9月に完結せしめんと予算したり。また書林は、旧知なる小林新兵衛、牧野善兵衛、三木佐助の三氏に発売の事を託せしに「予約発売の方法よからん」と勧めらるるに従いて、全部を4冊に分かちて、第1冊は3月、第2冊は5月、第3冊は7月、第4冊は9月中に発行せんと仮定しぬ。さるにこの事業、いかなる運にか、初めより終わりまで常に障害にのみ遭いて、一つも予算のごとくなることあたわず、ついに完結までに2年半を費やせり。いま左にその障害の著きものを記さん。

 

印刷所の都合

明治22年3月に至りて、編集局の工場を仮に印刷局につけられたる由にて、その事務引き継ぎのためにとて、数十日間、工事の中止に遭い、さて23年3月に至りて、編集局の工場はついに全く廃せられぬ。これより後は一私人として、さらに印刷局に願い出でずては叶わず、その出願には規則の手続きを要せらるる事ありて、予算に違える事も起こりしかば、編集局に愁え申す事どもありしかど、今は詮方なしとて退けられぬ。稿本下賜の恩命もあれば、強いて違約の愁訴もしかねて、それより家兄修二、佐久間貞一君、益田孝君などの周旋を得て、とかくの手続きして、辛うじて再着手とはなれり。この間も中止せられぬること六十余日に及びぬ。またこの前後、公用刊行のもの輻輳する時は、おのれが工事は差し置かれたる事もしばしばなりき。かく数度の障害には遭いつれど、この工事を他の工場に託せんの心は起こらざりき。さるは、同局の工事は、言うまでもなき事ながら、植字に校正に、謹厳精良なる事、麻姑を雇いて痒処を掻くがごとく、また他にあるべくもあらざればなり。見ん人、本書を開きて目留めよかし。

 

校正者の死

さてまた本書植字の事、原稿の上にては、さまでとも思わざりしが、さて着手となりてみれば、仮名の活字は異体別調のものなれば、寸法いちいち同じからず、そのほか種々の符号など、全版面におよそ七十余通りの使い分けあり。植字校正の煩わしきこと熟練の上にても捗らず、いかに促せども進まず。また辞書のことなれば、母型に無き難字の、思いの他に出できて、木刻の新調にいとまを費やせる事はなはだ多し。およそこれらの事、予算には思い設けぬ事どもにて、すべて遅延の事由とはなりぬ。また校正者中田邦行氏、脳充血にて22年6月に失せられぬ。本書の業につきてはその初めより、大久保氏とともに助力、大方ならず、多年、編中の文字符号に熟練せる人を失いて、いといと困じぬ。また去年の春、流行性感冒行われ、年の末より今年にかけて再び行われ、おのれも校正者も植字工もこの前後、再度の流行に数日間倒れぬ。また去年の10月、おのが家、壁隣の火に遭えり。また校正者大久保初男氏、その11月、徳島県中学校教員に赴任せられて、頼める一臂を失いて、いよいよ困じぬ。およそこれらの事、皆この書の遭厄なり。これより後は先人の旧門なる文伝正興氏に託して、校正の事を担任せしめぬ。

 

娘を亡くす

遭厄の中に最も堪えがたく、また成功の期に近づきて大いにこの業を妨げつるは、おのれが妻と子との失せつる事なりけり。ここには不要にもあり、くだくだしゅうもあれど、おのれの身に取りては、この書の刊行中の災厄とて、最も後の思い出とならん事なるべければ、人の見る目にも恥じず記し付けおかんとす。去々年11月に生まれたるおのが次女の「えみ」と言える。生れてよりいと健やかなりしが、去年10月の20日ばかりより、感冒して、後に結核性脳膜炎とはなれり。医高松氏が病院に、妻小婢(いそ)と共に託せしに、病性よからずして心を悩ましぬ。朝夕に行きては労わしき顏を守り、帰りては筆を執れども、心も心ならず。11月16日の、まだ宵の間に、まさに原稿の「ゆ」の部を訂正して、琴の押し手の「ゆしあんずるに」「ゆの音、深う澄ましたり」などいう条を推考せる折りに、小婢、病院より馳せ帰りきて、家に入りて、物をも言わずそのまま打ち伏し声立てて泣く。病の危篤なるを告ぐるなり。筆を投げ打ち、決起して走り行けば、煩悶しつつやがて事切れぬ。泣く泣く屍を抱きて家に帰り、床に安して、さて、しめやかに青き灯の下に勤めて再び机に就けば、稿本は開きて元のごとし。見れば源氏の物語・若菜の巻「さりとも、琴ばかりは弾き取り給いつらん…昼はいと人しげく、なお一度もゆしあんずる暇も、心慌ただしければ、夜々なん静かに」。「ゆ」は「揺すること」なり。「あんずる」は「按ずる」にて「左手にて弦を揺り押す」なり。また紅葉の賀の巻「箏の琴は…いと美しゅう弾き給う、小さき御程に、さしやりてゆし給う御手つき、いと美しければ」「おのれが思いなしにや、読むにえ堪えで机おしやりぬ。この夜一夜、おのれが胸は、ゆしあんぜられて夢を結ばず」「死にし子、顏よかりき」「おんな子のためには、親、幼くなりぬべし」など、紀氏の書き残されたりつるを寂し思える事もありしが、今は我が身の上なり。「むべなり」など思いなりぬ。

 

そして妻も

この小児の病に心を痛めつるにや、打ち続きて、家の内に、母にておわする人を初めとして、病に伏す者5人に及びぬ。妻なる「いよ」嘆きの中にも、ひとり甲斐甲斐しく人々の看病してありしが、妻もついにこの月の末つ方より病に伏しぬ。初めは何の病とも認めかねたるに、数日の後、腸チブスなりとの診断を聞きて、驚きて本郷なる大学病院に移して、また昼に夜に行き通いて病を見、病の暇を窺いては帰りて校訂の業に就けども、心はここにあらず。洋医ベルツ氏も心を尽くされけれど、遂に12月21日に30歳にて儚くなりぬ。いかなる故にてか、かかる病にはかかりつらん。年頃よく母に仕え我に仕え、この頃の我が辛勤を察して、よそながら、いたく心を痛め、はた家政の苦慮を我に及ぼすまじと、一人思いを悩ましてまかないつつありける様なりしに、子の嘆きをさえ添えつれば、それら、ようよう身の衰弱の種とは成りつらん。さては子の失せつるも、衰弱せる母の乳にや基しつらん。「あぁ今の苦境も後にいつか笑いつつ語らわん」など語らいたりしに、今はその甲斐なし。半生にして伉儷を失い、重なる嘆きにこの前後数日は筆とる力も出でず、強いて稿本に向かえば、あなにく、「ろ」の部「露命」などいう語に出で合うぞ袖の露なる。巻を覆いて寝に就けば、角枕はまた粲たり。そも、かかる女々しく怯なき心を、ことごとしゅう書い付けおかんは、人笑われなる業にて、恥がましき限りなれど、この頃の筆硯の苦・人情の苦に、窮措大が嚢中の苦さえ総合しつる事なれば、後にこの書を見んごとに、おのれ一人が思いやりにせんとてなり。読まん人は哀れとも見許したまえや。

 

刊行遅れて嘘つき呼ばわり

本編刊行の久しき年月の内に、思い設けぬ災害の並び至れること、上に言えるがごとくなれど、誰人かおのれが心事を推し測りえん。されば予約せし人々は元より内情を知らるべきならねば、いつも厳しく遅延を促されて、発行書林の店頭には、毎回の督責状、うず高きまでになりぬ。書林はまたおのれを責めぬ。そが督責状なりとて持てくるを見れば、文面も様々にて、おかしきもあるが中に「大嘘槻(おおうそつき)先生の食言海」など記し付けられつるもありき。おのれは正しく約束を違えぬ。ひとえに謝する所なり。計画の至らざりしは、身を恨むるほかあるべからず。そもそも初めより予約という事せしこと、返す返すも誤りなりき。「予約だにせざりせば、かかる嘲りに遭うこともあらじを」など悔ゆれども詮無し。されど責めらるる辛さに、夜も更くるまで筆は取りつ。責めらる苦しさに、及ぶ限りは印刷の方にも迫りつ。それだにかく遅れたり。「責められざらましかばいかにかあらまし」など思えば、予約せしことも、僥倖なりきとも思いなしぬ。さて内外の苦情は身ひとつに集まり来て、陳謝に陳謝を重ねて、逃るべき道なくなりつ。また2年余りが程の座食に担石の儲けなきにも至りつ、今はせん術なくて、さては編中およそ7~8分より末は急ぎに急ぎて、十分なる重訂も得せられず、不用なるめりと思わるる語、または注に引ける例語の2つ3つあるなどは、愛を割きて削りて(編首の数ページは初稿のままなり。編末またかくのごとし。されば前後の詳略の釣り合わぬ所も、また符号などの揃わぬ所も出で来つらん)ひとえに完結の一日も早からん事をのみ期しぬ。されば初めには付録として、語法指南、字音仮名づかい、名乗り字の読み、地名苗字などの読みがたきもの、和字、訛字、または諺など添えんの心なりしかど(語法指南のみは編首に載せつ)今はしばらくここに閉じめて、再版の時を待つこととはせり。されど初めは、全編の紙数およそ1000ページと計りしが、大いに注釈を増補する所ありて、全部完成の上にては紙数2割ほどは増えつらん。これを乗除とも見よかし。

 

他の辞書編者への皮肉

辞書は文教の基たること、論ずるまでもなし。その編集功用の要はこの序文に詳しければ、さらにも言はず。されば文部省にても早くよりこの業に着手せられぬ。『語彙』の挙は明治の初年にあり。その後、田中義廉、大槻修二、小澤圭二郎、久保吉人の諸氏に命ぜられて、漢字の字書(本邦普通用の漢字を3000ばかりに限らんとて採集・解釈せるもの)と普通の日本辞書とを編せられつる事もあり。こは明治5年より7年にかけての事なりき。さて明治8年に至りて、おのが言海は命ぜられぬ。世はようよう文運に進みたり。辞書の世に出でつるも、今は一つ二つならず。明治18年9月、近藤真琴君の「ことばのその」発刊となれり。21年7月に物集高見君の「ことばのはやし」、22年2月に高橋五郎君の「いろは辞典」も刊行完結せり。近藤君は漢洋の学に通明におわするものから、その教授の忙わしきいとまにかかる著作ありつるは敬服すべきことなり。「この著作の初めに、おのれが文典の稿本を借してよ」とありしかば、借し参らせつれば、やがて全部を写されたり。されば8品詞その他の分かちなどはおのれが物と、名目こそはいささか変わりつれ、その筋は大方同じ様とはなれり。そのかみ、君を初めとして、横山由清、榊原芳野、那珂通高の君たちに会い参らせつるごとに「辞書はいかに」と問われたりき。「成りたらんには」とこそ思いつるに、今は皆世におわせず、写真に向かえども応えなし。哀しき事の限りなり。物集君は故高世大人の後とて、家学の学殖もおわするものから、これも教授に公務に、いとまあるまじくも思わるるに、綽々余裕ありて、その業を遂げられつること歎服せずはあらず。近藤君の著と共に、古書を読みわ分けん者に裨益多かりかし。「いろは辞典」はその選を異にして、通俗語・漢語多くて、動詞などは口語の姿にて挙げられたり。童蒙の助け少なからじ。三書おのおの長所あり。おのれが言海、誤りあるべからんこと言うまでもなし。されど体裁に至りては、別に自ずから出色の所なきにしもあらじ。後世いかなる学士の出でて辞書を編せんにも、言海の体例は必ずその考拠の片端に供えずはあらじ。また辞書の史を記さん人あらんに、必ずその年紀の片端に記し付けずはあらじ。自負の咎めなきにしもあらざるべけれど、この事はおのれ、いささか行く末をかけて信じ思う所なり。

 

言海の欠点

おのれ元より家道、豊かならず。されば資金の乏しきに困じて、物遠き語とては漏らしつる。出典の書名を省きつる。図画を加えざりつる。共にこの書の短所とはなりぬ。遺憾やらん方なし。そも、おのれが学の浅き才の短き、この上に多く立ち勝りて、別にし出でん事とてもあるまじけれど、今の目の前にてもあれ、資本だに継がば、これに倍せんほどのもの作り出でんは難からじなど、かけて思う所なきにしもあらず。されど我が国の文化は開けつるがごとく見ゆれど未だ開けず。資金を費やして完全せしめんには、価を増やさずはあるべからず。今の文化の度にては、物の品位に対して廉不廉などの比較は置きて言わず。ただ書籍なんど言わんものに、若干円という金出さんずる需用家の多からんとは、かけても望み得ず。されば、たとい資本を得たりとも、収支の合わざらん業はおこなりけりと思いなりて、志を出費の犠牲としてさてやみつるなり。昔の侯伯には、食前方丈、侍妾数百人を省きて、文教の助けとある浩瀚の書を印行せしもありき。今の世にはありがたかり。ここに至りて、韓文公が宰相への上書を思い出でて「あわれ、力ある人の一宴会の費えもがな」など卑しげなる硬い心も出で来るぞかし。やみなんなん、学者の貧しきは、和漢西洋、千里同風なりとこそ聞けれ。おのれのみ呟くべきにあらず。さりながら、この業もとより、この度のみにしてやむべきにあらず。年を追いて刪修潤色の功を積み、再版、3版、4, 5版にも至らん。天のおのれに年を仮さん限りは、斯文のためにたゆむ事あるべからず。

 

結語

今年1月7日、原稿訂正の功、全くしを経て、辛うじて数年の辛勤一頓し、さて今月に入りて、全部の印刷も遂に全く大成を告げぬ。ここに多年の志を達して、かつは公命に答え奉り、かつは父祖の霊を拝して、いささか昔日の遺戒に報い終わんぬ。明治24年4月 平文彦

 

追記

この文、もと、稿本の奧に書きつけおけるおのれが私物にて、人に示さんとての物ならず、17年が間の痕、忘れやしぬらん、後の思い出にやせん、とて筆立てしつる物なるが、事実を思い出ずるに従いて、儚き述懐も浮かび出ずるがまにまに、ゆくりなくも、弥が上にも書いつけもて行ける果て果ての、こうもくだくだしゅうは成りつるなり。さて本書刊行の成れるに及びて、跋文なし、人に頼まん暇はなし。「よしよし、この文を添えもし削りもして、その要とある所を摘まみて跋に代えん」など思い量りたりしに、今は日に日に刊行の完結を迫られて、改むべき暇さえ請いがたくなりたれば、やむことを得ずして、末に年月を加えて、浄書も得せずして、全文をそのままに活字に物する事とはなりにたり。さればこの文を読むことあらん人は、ただその心して読みたまえかし。もし、さる事の心をも思い量らず、打ちつけに読み取りて「ただ一部の書を作り成し得たればとて、世に事々しき繰り言もする人かな。心の底方こそ見ゆれ」などあながちに我を貶め言わん人もあらば、そは「丈夫を見ること浅きかな」と言わん。ただ返す返すも、ゆくりなき筆のすさびと見て放かしたまえや。

 

最後に

古今集

いにしえの事をも、筆の跡に著し、行きて見ん境をも、宿ながら知るは、ただこの道なり。しかのみならず、花は木ごとに咲きて、ついに心の山を飾り、露は草の葉より積もりて、言葉の海となる。しかはあれど、難波江のあまの藻汐は、汲めども絶ゆることなく、筑波山の松の爪木は、拾えどもなお繁し。

同(= 続古今集)賀

敷島や大和言葉の海にして拾いし玉は磨かれにけり 後京極

There is nothing so well done, but may be mended.*1

*1:「至善の業なお改革の余地あり」「手直しの必要がないほど優れた作品などない」の意